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阿波おどりとは — 400年の歴史と、いま

夏の徳島に、100万人が集まる

毎年八月、徳島市の中心部は一年でいちばんにぎやかな数日を迎えます。徳島市のホームページによれば、阿波おどりは「400年を超える歴史を持つといわれる、徳島が世界に誇る伝統芸能」で、本場・徳島市には国内外から100万人を超える観光客が訪れます。開催期間は毎年8月11日から15日まで。東京の高円寺、埼玉の南越谷など、いまでは全国各地で阿波おどりが開かれていますが、その源流はこの街にあります。

踊り子は「連(れん)」と呼ばれるチームを組んで踊ります。三味線や太鼓などの伴奏を担う人たちも連の一員で、この楽器隊を「鳴り物(なりもの)」と呼びます。徳島県のホームページは、連の総数は1,000を超えると記しています。

これから見に行くという方に向けて、この祭りがどこから来て、いま何が起きているのかを整理してみます。

起源には、まだ定説がありません

阿波おどりの起源は、実ははっきりしていません。徳島県のホームページは、次の三つの説を並べて紹介しています。

築城起源説は、天正15年(1587年)に蜂須賀家政(はちすか いえまさ)によって徳島城が落成した際、その祝賀行事として城下の人々が踊ったのが始まり、という説です。蜂須賀家政は徳島藩の藩祖にあたる武将です。

風流おどり起源説は、寛文3年(1663年)の『三好記』にある、天正6年(1578年)に十河存保(そごう まさやす)が勝瑞城(しょうずいじょう)で風流おどりを開催したという記録をもとに、これが阿波おどりの原型だとする説です。

盆おどり起源説は、もとは先祖を迎える盆踊りだった、という説です。

どれが正しいのでしょうか。ここは正直に書いておきます。もっとも有名な築城起源説について、観光庁のホームページは、「この説を裏付ける史料は残っていません」とはっきり記しています。同じページには、盆踊りに起源を求める研究者もいる、とも書かれています。

つまり、「400年前に殿様の祝いから始まった」というよく聞く物語は、確かな史料に支えられた歴史というより、長く語り継がれてきた伝承として受け取るのが正確です。この曖昧さ自体が、庶民の踊りとして続いてきた祭りらしいところでもあります。

江戸時代 — 取り締まられ、藍に支えられた

一方で、江戸時代の記録ははっきり残っています。観光庁のホームページによれば、1671年に踊りを取り締まるための規則が出されました。内容は次の三か条です。

  1. 踊れる期間は3日間のみ
  2. 武士は参加を許可しない
  3. 寺の敷地で踊ることは禁止する

わざわざ規則を出すということは、それだけ盛り上がっていたということでもあります。観光庁のホームページには、藩当局が「住民が特定の近隣地域でのみ踊ることができるように厳しい規制を課しました」とあり、さらに興味深いことに、街頭に集まって踊るため警察署の許可を得る必要があり、その状況は現在でも続いていると書かれています。

そしてこの祭りを経済的に支えたのが「阿波藍(あわあい)」でした。徳島県のホームページは、盛んに踊られるようになったのは藍や塩で富が蓄積された頃からで、藍商人が活躍し、年を重ねるごとに阿波おどりを豪華にしていった、と説明しています。文化庁の日本遺産「藍のふるさと 阿波」(2019年認定)にも、阿波おどりは構成文化財のひとつとして含まれています。

その藍は、20世紀初頭、海外からの安価な合成染料の輸入によって衰退していきます。祭りを支えていた財布が細ったのです。

「阿波おどり」という呼び名は、意外と新しい

では「阿波おどり」という名前はいつから使われているのでしょうか。

観光庁のホームページによれば、1928年に徳島商工会議所が踊りの協賛を始め、観光地として急速に成長しました。この頃から「盆踊り」に代わって「阿波踊り」という言葉が使われるようになり、1946年に「阿波踊り」という名称が正式なものとなったとされています。「阿波」は徳島県の旧称です。

観光庁のホームページの別のページでは、「祭りのルーツは400年以上前に遡りますが、徳島が戦前の昭和時代(1926年〜1945年)に観光客への宣伝を始めたときに『阿波おどり』という名前が付けられました」と、より端的に書かれています。

つまり、踊りそのものは古くても、いま私たちが使っている「阿波おどり」という呼称は、昭和に入ってからの観光振興のなかで広まったものだということになります。400年の歴史と、100年に満たない呼び名。この二重構造は、知っておくと祭りの見え方が少し変わります。

なお1931年には、芸者で歌手の多田小餘綾(ただ こゆるぎ、1907〜2008年)が「阿波よしこの」をヒットさせ、阿波おどりの普及に貢献したと観光庁のホームページは記しています。

戦後 — 中断、復活、そして世界へ

第二次世界大戦の直前と戦時中、祭りは開催されませんでした。再開は1946年(昭和21年)です。

戦後の大きな転機は1970年の大阪万博でした。ここで初めて海外の観客に広く見られるようになり、海外公演を行う連も現れます。観光庁のホームページは、万博が踊りそのものの変化のきっかけにもなったと述べています。出演者が観客を積極的に踊りの楽しさに引き込もうとした結果、阿波おどりはより洗練されたスタイルへ発展していった、という説明です。

もうひとつ、意外と新しい要素があります。大人数が一斉に踊る「総踊り(そうおどり)」です。阿波おどり振興協会のホームページによれば、1,700人以上が一斉に踊り、阿波おどりの代名詞ともなっているこの総踊りは、昭和47年(1972年)に同協会が考案したものです。伝統の象徴のように見える光景が、実は50年ほど前に生まれた演出なのです。

子どもの参加も同様で、観光庁のホームページは「子どもたちは1970年代から、阿波おどりに参加し、大人と一緒に踊りを披露してきました」としています。

いま — 「阿波おどり未来へつなぐ実行委員会」の体制へ

現在の徳島市の阿波おどりは、2022年(令和4年)4月に発足した「阿波おどり未来へつなぐ実行委員会」が運営しています。徳島市のホームページによれば、設立総会は2022年4月8日に徳島市シビックセンターで開かれました。実行委員会のホームページでは、開催スケジュールやチケット情報のほか、会議資料も公開されています。

いま見に行く阿波おどりは、400年といわれる伝承と、100年の観光の歴史の上に立っています。そう思って眺めると、目の前で跳ねている踊り子の一歩が、少し違って見えるかもしれません。